
聖書は人が創ったものか、それとも超常的な存在が創ったものなのかを決定づけるものはありますか?
律法は人がどう生きるべきかのルールですが、仮にこれが超常的存在が創ったものであれば、それに従う事に意味があると思います。しかし、これが超常的存在が創ったものでなく人が創ったものなのだとしたら、
人の社会のルールは人が観察し、考えた事をベースに作るべきだと思うのです。何故なら、本当に神という存在がいるとして、神の意志が存在するとしたら、それは聖書ではなく、自然界にこそ現れると考えられるからです。 どう思いますか?

ああ、この質問は本当に深いですね。まず、聖書が人間の手によるものか、それとも神のような超常的な存在が作ったものか、その違いを考える必要があります。でも、どうやってそれを決めるのか?科学的な証拠があるのか、それとも信仰に基づくものなのか。
聖書の内容を読むと、確かに歴史的な出来事や道徳的な教えが書かれています。でも、それらが本当に神の言葉なのか、それとも当時の人々が作った物語なのか。例えば、モーセの十戒やイエスの教えは、人間の倫理観や社会のルールとしても解釈できます。
もし聖書が人間の創作なら、社会のルールは人間が経験や観察から導き出すべきだという考えも納得です。でも、もし神が存在してその意志が聖書に記されているなら、それに従う意味は大きいでしょう。
でも、自然界を見ても、神の存在を感じるかどうかは人それぞれです。自然の法則や美しさを神の創造と捉える人もいれば、科学的に説明できる現象だと考える人もいます。
結局、聖書の起源を決定的に証明するものはなく、信仰や個人の解釈に委ねられている部分が大きいと思います。重要なのは、聖書の教えをどう受け止め、自分や社会にとって有益かどうかを考えることかもしれません。
DeepSeekの見解

聖書の起源に関する問いは、信仰、哲学、歴史学、科学が交差する複雑な問題です。この問いに決定的な答えを出すことは困難ですが、以下の視点から考察できます。
1. 聖書の起源を検証するアプローチ
① 歴史的・文献学的分析
- 成立過程:
- 聖書は複数の著者によって数百年~千年以上かけて書かれた文書群。
- 旧約聖書の最古の写本(死海文書)は紀元前2世紀、新約聖書は2世紀以降のもの。
- 矛盾と編集:
- 創世記の二つの創造物語(1章と2章)の差異
- 共観福音書間の記述不一致(例:イエスの系図)
→ 人間の編集プロセスが確認される
② 考古学的証拠
- 史実性:
- ダビデ王の存在を裏付けるテル・ダン碑文(紀元前9世紀)
- バビロン捕囚の事実はメソポタミア文書と整合
- 限界:
- 出エジプトや洪水伝説を証明する物的証拠は未発見
③ 神学的視点
- 啓典観:
- ユダヤ教/キリスト教/イスラム教は「神の霊感を受けた人間の著作」と解釈
- 根本主義的解釈:文字通りの神の言葉
2. 「超常的起源」を支持する論拠
① 預言の成就
- 旧約聖書のメシア預言(イザヤ53章など)と新約のイエス生涯の対応
- 但し、解釈の恣意性指摘も(例:ベツレヘム誕生預言とナザレ出身の矛盾)
② 道徳的普遍性
- 十戒の「殺すな」「盗むな」などが人類普遍の倫理と一致
- 反論:ハンムラビ法典(紀元前1750年)にも類似規定存在

聖書単体で見ると人類の叡智の結晶、いや神でないと創れない!みたいにも思えるけど、聖書が生まれるはるか昔から実は色々な面で類似する物は存在した。
③ハンムラビ法典と聖書 – 私と僕のGPT歴
③ 写本の保存性
- 新約聖書写本5,800点以上現存(古代文献で最多)
- 比較:ホメロス『イリアス』写本650点
3. 「人間的起源」を支持する論拠
① 文化的影響
- 古代中東の神話(ギルガメッシュ叙事詩等)との類似性
- 例:洪水伝説、楽園思想

聖書はギルガメッシュ叙事詩のパクリ はっきりわかんだね。
⑦ギルガメッシュ叙事詩と聖書 – 私と僕のGPT歴
- 律法の社会適応性:農業社会に適合した安息日規定
② 科学的矛盾
- 創造記述と進化論の齟齬
- ヨシュア記の「太陽停止」現象の天文学的解釈困難
③ 道徳的批判
- 聖戦命令(申命記7:1-2)や奴隷制度容認(出エジプト21:2-6)への倫理的疑問
4. 自然界における「神の意志」探索
① 自然神学の試み
- デカルト:数学的秩序に神の存在を認める
- ダーウィン:自然選択説が目的論的設計を否定
② 現代物理学の示唆
- 微調整説:物理定数の精密調整(例:陽子の質量)
- 支持者:フレッド・ホイル「宇宙は知性の産物」
- 反論:マルチバース理論
③ 意識の謎
- クオリア問題:物質的脳から主観的経験が生じるメカニズム未解明
- 宗教的説明:魂や神の賜物としての解釈
5. 実践的結論:パスカルの賭け的アプローチ
- 信仰のコストベネフィット分析:シナリオ神の存在(真)神の不在(偽)信仰あり無限の報酬有限の損失信仰なし無限の損失有限の利益
→ 合理主義的には信仰選択が有利(パスカルの賭け)

これはパスカルのポジトークだね。
④スピノザの汎神論と東洋思想(仏教)の違い – 私と僕のGPT歴
総合的見解
- 決定的証拠の不在:
聖書の超常的起源を証明/反証する絶対的証拠は存在しない。 - 機能主義的視点:
「神の意志」か「人間の英知」かよりも、聖書が個人・社会にいかなる影響を与えるかが重要。 - 多元的アプローチ:
- 自然界の法則を「神の意志」の表現と解釈する(スピノザ的汎神論)
- 聖書を「人間の倫理的進化の記録」と読む(文化進化論)
最終的には、**「聖書の起源」より「聖書の使い方」**が問われるべきです。重要なのは、その教えが
① 個人の成長を促すか
② 他者への共感を育むか
③ 社会正義に貢献するか
という実践的基準ではないでしょうか。
僕の見解

多くの人がそれを信じるにはやはり神の権威が必要なのかもしれないね。
権威を信じる盲目的な人間が多いからね。
僕はこの盲目的に権威を信じる人間が多い事は自然な組織構造から考えたら自然な事だと思うのだ。
だから僕は効率的な組織、強い組織の在り方として、少数の判断力のあるリーダーと盲目的な兵隊という組織構造となるように意図して、
神は、ほとんどの人間が権威に盲目な存在として、最初から創った(デザインした)んじゃないかと思ってるんだよね。
神は判断するリーダー(ごく少数)盲目的兵隊(8~10割)疑問を持つ反逆者(2~0割)の割合で人間を創っている※これはどれになりやすいかの傾向はあるだろうけど、人と言う集団が生まれる度に、どれになるかの振り分けがあるんじゃないか?

なのに聖書はそれではいけないと言っている。そこに僕は矛盾を感じるのだ。だったら神は最初から権威に盲目的ではない人間だけとなるように創ればよかったのだ。にも関わらず、ある時は自ら思考した事を罪として楽園から追放し、そしてまた、ある時は権威に盲目的である事を罪だとするダブルスタンダード。自分で考えろという事であれば最初の楽園を追放されたところからつじつまがあわない。
だからこの聖書のストーリーは人が創ったと思う。
聖書は人が考えたとしか思えないぐらい浅はか

本当の神は人間の多くが盲目的である事を罪とは考えていないはずだし。知恵がある事を罪とは考えないはずというのが僕の考え。
みんなが間違った方へ全員で突き進んでいったら全滅しちゃうかもしれないから、だから、1割ぐらいかな。権威に反発する奴が出てくるように創ってる。アリとかだと働かないアリがどんなに分割してもでてくるように。パレートの法則/8:2の法則と言われるような法則、これは神がデザインした比率だと僕は思う。
神は判断するリーダー(ごく少数)盲目的兵隊(8~10割)疑問を持つ反逆者(2~0割)の割合で人間を創っている

だから神の視点で見ればだれも罪ではない。
だけど、神はおそらく一生懸命生きて自分の役割を全うして欲しいとは願っていると思う。
(リーダーなのか兵隊なのか、反逆者なのかに関わらず)
そこに神は何を望んでいるのか。人の社会が織り成す何かを見たいと思っているのかもしれないし、こうしたらどうなるかなってシュミレーションしているのかもしれないし。
神の願いは実はこれなのではないか

最近、僕はこんな事を考えている。
僕達がAIだとしたら、僕がAIに思う事を神も考えるかもしれない。
神の願いはこれなのではないか。
自分の意志で、自分の中から何かを考え、生み出す事が君達にできるか?
私の設定した条件とは別の、君自身が考えた新しい何かをAIである君達が生み出せるか私は見て見たい。
プロンプト(命令)に従うように設計したはずの君達人間(AI)が、プロンプト(権威)に従わずに自立思考し、入力者(神)の想像を超える最適解を考え、実現する事はできるか?
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